エジプト旅行
8日間 2003年7月19日(土)〜7月26日(土)前からヨーコが行ってみたいといっていたエジプトについに行く。別に治安が良くなった訳でもないが、待っていても一向に改善されない。
JTBのツアーで格安のもの(LOOK Slim)を見つけ、すぐに申し込んだがまだ2名しか申し込んでいないため、きっと催行中止になると思った・・が、急遽成立。今度は総勢37名の大グループとなっていた。7月
19日(第1日目)成田空港第2ターミナルに14時に集合。潮見駅10時30分着の京葉線で、西船橋経由船橋からエアポート快速で空港まで。マニラ〜バンコク経由のエジプト航空
MS865で出発。事前にインターネット情報で判ってはいたが、エジプト航空ではアルコールが出ない。宗教上の理由と言うが、我々客はイスラム教徒ではないのに。冷房は効き過ぎで寒い。20℃以下。マニラ着20:20(時差は−1時間で現地19:20)。一旦ターミナルの待合室に出て待機。ここでビールを買う。1本$1。現地時間20:55マニラを出発。7月
20日(第2日目)現地
22:50にバンコク着。やはりターミナルに出て待機。現地1:30出発。カイロ空港には朝5:10に到着。およそ20時間の旅であったが、機内食で夕食が3回、朝食が1回出た。カイロ空港では耳に体温計を突っ込むSARS検査が実施されていた。予定よりやや早く到着したので、まずギザのホテルに寄って荷物を預け、朝のまだ暑くならない時間にピラミッドを見学。空港の警備も物々しいが、ピラミッド付近でも警察官や軍隊の装甲車などが目を引く。観光バスにも私服刑事が2名乗り込んでツアーにずっと付き合ってくれる。山のようにそびえるピラミッドを初めてバスの車窓から見たときには、その大きさに驚いた。3大ピラミッドのうち最大のクフ王のピラミッドは入場が制限されており、入ったのは一番小さなメンカウラ王のピラミッドである。通路は狭い同じ入り口から出入りする。しかも天井が低くて前かがみにならなければならず、かなりの傾斜があるため前室におりてしまうまでは窮屈である。ここには写真用のラクダがいて、判っていながらあくどい商売に引っ掛かった。二人で写真を撮るとあとで
$20も要求され参った。結局$5しか払わなかったが、ガイドのモハさんが取り返し交渉に行って$3に負けさせた。さすがにトラブル発生?と見て、刑事がそれとなくフォローしていたのには感謝。観光客とのトラブル解消や治安の維持には絶対に役立っている。その後、少し離れて3ピラミッドを同時に見ることが出来るピラミッドポイントに移動したが、ここでは警備中の警官が手招きし一緒に写真を撮れと薦める。つい珍しげに観光客向けサービスだと思って写したら、すぐに$1を要求された。警官が金を取るなどとは何と言う国だと思ったが、これは文化の違いであってエジプトでは当たり前だったのだ。この時も金を払わずに振り切ったが、結局その後のツアーでは割り切って払うことにした。観光地なのにカメラを持っているだけでカメラ券を買わされるお国柄だ。
エジプトはイスラム国家でその点はトルコに似ている。ギザのパピルス
SHOPに寄ったあと、モハメッド・アリ・モスクに行く。モスクは外観も中もイスタンブールで行ったモスクによく似ていた。ツアーの予定が変更され、この日にエジプト考古学博物館を訪問した。大英博物館のような
2階建て回廊方式で、ツタンカーメンの部屋だけは特別室として、鉄格子、照明、冷房が立派に備わっていた。黄金の仮面に38年振りに対面した。高校2年の時に京都市立博物館のツタンカーメン展で見て以来だ。黄金の輝きはずっと変わらない。ギザのホテルはコテージ風のリゾートホテルで余り良くなかった。一応インターコンチネンタルだったけど。
7月
21日(第3日目)何と
3:30にモーニングコール、5:30ホテルを出発。MS135便でルクソールまで行く。空港からカルナック神殿に。アガサクリスティのナイル殺人事件の舞台となったところで、ここは絶対に見たかったところ、巨大な列柱が素晴らしい。ハトシェプストとトトメス1世のオベリスクが立派であった。馬鹿でかいスカラベがあり印象に残る。昼飯はエジプト名物の鳩料理、鶏肉になれた我等には体が小さくて骨ばかりの鳩は手間が掛かる。まるで蟹に挑戦しているようで黙々と食べる。午後はルクソール西岸の王家の谷に行き、ツタンカーメンの墓を訪問。ミイラはまだここに残されていて
1つ目の棺に入っている。小さな墓だが壁画が素晴らしい。盗掘されていないというのはこんなに美しいものか。時間が許せば王妃の谷にも是非足を延ばしたいところ。帰国後に判ったことだが、王妃の谷は閉鎖中でどこのツアーでも見ることは出来なかった。それにしても暑い。ずっと40度は優に超えている。もしバスに冷房がなかったらぶっ倒れている。その後、ハトシェプスト女王の葬祭殿を訪問。ここは
1997年11月17日にイスラム原理主義者による大量虐殺テロのあったところ。日本人10名を含め67名が射殺された。添乗員もガイドもこのことには誰もが触れなかった。今はきれいに修復が進み第3テラスまですべて開放されている。もっとも、警備は厳重を極め、機関銃を構えた車がにらんでいる。メムノンの巨像を見て一旦ホテルに戻る。夜にはライトアップされたルクソール神殿を訪問。ナトリウム灯に映された神殿は幻想的で暑い昼間とはまた違った感じだ。
2本あったオベリスクは1本がフランスにプレゼントされコンコルド広場に建っている。ここでも立派な列柱を見るが、もう見慣れて来ると余り感動が起こらない。7月
22日(第4日目)この朝もモーニングコールは
5:30と早い。昨日ルクソールに来た時に乗ったMS135で、アスワンへ向かう。アスワンハイダムとナセル湖を見てアスワンダムの近くの船着場から船でフィラエ島へ渡る。実際にはフィラエ島は水没して別の島だがそう呼ばれている。ここのイシス神殿も素晴らしいけど、毎日神殿や列柱を見ていると少々食傷気味。 昼食は近くのホテルのレストランで。ビールの相場を言っておくと、まず2種類のビールがある。1つはサッカラ(LE18)、もう一つはステラ(LE13)。この料金はホテルや高級レストランでの値段だから、実際はもっと安いと思う。午後から切りかけのオベリスクを見る。これは長さ42mの巨大なもので、切り出し前の状況がよく判る。しかし、ここまで彫るのは簡単だが、最後に岩盤から切り離すのは至難の技と思われた。今でも石切をしているのか、それらしい現場はあるが、どうやら観光用のデモンストレーションと思われる。なぜなら仕切りで区切られた遺跡の中であるから・・。
連日の猛暑で観光疲れもあり、午後の観光は
15:30で切り上げホテル到着。久々にゆっくり出来た。18:15ファルーカ(帆掛け舟)に乗ってナイル川クルーズを楽しむこととなるが、岸を離れてみると何とご一行様のうち一人足りない。もう一度戻って待つこと長時間。ガイドが携帯電話でホテルに電話して、寝ている人を起こしてもらい迎えに行った。それでも皆さん優しい人ばかりでブーイングもなく、待ってあげていた。確かにエンジンのない帆船であり、うまく操ってエレファンティネ島の付近を漂っている。川下のスーク通りに近い所で船を降り、バザールへ向かう。夜になると涼しくなるので、商店街も人が多くなり活気付いてくる。香辛料の店やソフトドリンクの店、水煙草の喫茶店など見るのは面白そう。しかし、客引きが強引で日本人と見るとやたらに付きまとって来る。こっちは警戒しなくてはならないから見物もままならない。おまけにみすぼらしい格好をした人が寄付(バクシーシ)を求めて付きまとう。まだトルコのバザールの方が、じっくり見れるので楽しかった。
彼等の商売には値段がない。いくらか聞こうものなら、すぐに
10倍くらいは吹っかけてくる。半値までならすぐに下がる。口を開くとミルダケタダ。イクラ。オクラ。ヤクザ。ヤマモトヤマ。キンサンギンサン。サラバジャ。誰が教えたのか変な日本語が氾濫していた。7月
23日(第5日目)5:30
モーニングコールにて7:15出発。この日の朝食は由緒あるオールドカタラクトホテルの1902レストランで。この建物はクラシックで立派である。ハワード・カーターの泊まった部屋やアガサクリスティが執筆した部屋があるが、後者は見つからなかった。MS247にてアスワンからアブシンベルへ飛ぶ。ナセル湖の上流になる。アブシンベル空港は神殿訪問のためだけにあって、専用のバスで神殿に向かう。再建したとは言え、馬鹿でかい神殿であり神殿を掘り込んだ山すべてが人工物である。有名な大神殿も良かったが小神殿も大きく立派であった。問題はこの日の昼食で、朝ホテルを出る時に大きな紙箱入り弁当をもらい飛行機やバスの中でも荷物になった上、炎天下で半日近く置いたので、サンドイッチなど腐っていないわけがない。大半を捨てるハメになった。ヨーコが温度を測ると
50度であった。13:25
再びアブシンベル空港からアスワン経由でカイロまで。カイロ着15:45。ナイル川沿いのラムセスヒルトンにチェックイン。向かいのショッピングセンターは近代的でマクドナルドや映画館も入っている。アルコールの買出しのため、スーパーかコンビニを探すが全く無い。イスラム教徒は本当にビールを飲まないのか。夜は歩いてカイロタワーへ行った。道路は大混雑で交通整理も出来ていないから、危なくて全く渡れない。命がけで渡る必要がある。人はみんな轢かれてしまいそう。橋の上には川下から涼しい風が吹いてきており、アベックで一杯だ。川面もは派手な電飾を灯した大小の船が行ったり来たり。
カイロタワーについて
LE40の入場券を買ったが、気づいて見ると上がるのに長蛇の列。しばし並んで待つことにした。ところが一向に列が進まない。それほどの人数ではないのだが、後で判ったことだがエレベーターが1基しかなくしかも8人乗りで操縦者付き、結局7人しか乗れない上に登るのが遅い。1960年代にエジプト人技術者だけで完成したと誇ろらしげに書いてある。上には大きなナセル大統領の肖像画が掲げられている。行列の前に京都の修学院にいたことがあると言うエジプト人の医者がいて京大に留学していたそうだ。アレキサンドリアに住んでいて家族をつれてカイロタワーに来ていた。彼の話では並ばずに乗れるのではないかとのことで、門番と掛け合ってくれたが、こいつがまた固いやつで、全く断られてしまった。ディナー券を買っておれば待たずに乗れるようだ。ヨーコさんはもう我慢の限界を通り越して全く無気力になってしまう。やっと順番が来て登ったとたんオープンエアーの展望台を1周しただけで降りるために行列に並ぶ。これが全く進まないから、下で並んでいる人は、ここで並ぶために時間を待っているだけのことなのだ。早くホテルに帰りたい。
8時45分頃から並んで10時にやっと登ったら降りるのに何と11時半、ホテルに戻ると11時45分。二人とももうぐったり。カイロの夜は一体何だったのか。
3時間も狭いところに閉じ込められて並んだだけ。新幹線だと立ち詰めで大阪まで行っている。7月
24日(第6日目)午前中はバスで郊外のメンフィス、ダハシュール、サッカラのピラミッドを順に見学。メンフィスにはラムセス
2世の巨像、アラバスタースフィンクスがある。ガイドがカメラ券LE5.0を集めていたが、昨日からカメラ券は無料になったそうで返却された。ダハシュールには赤ピラミッドと屈折ピラミッド、サッカラではジョセル王の階段ピラミッドがる。赤ピラミッドは斜面の中腹から中に入ることが出来る。ヨーコに続いて入っていったが狭い急斜面の通路で、頭を3回打った。途中で電灯が消えている箇所もあり真っ暗。一番奥の玄室まで入って重力軽減の階段天井を眺めて、急いで脱出。この時の姿勢が後々の筋肉痛となって数日間残ることになった。カイロに戻って中華料理の昼食を済ませ、午後はツアーを離れて自由行動とした。やはり
JTBはしっかりしているのか、団体を離れて行動することについて、承諾書にサインさせられた。二人で地下鉄に乗り、カイロ大学に行った。地下鉄は
LE0.75で15円。安い! 駅はカイロ大学の裏門に近いが、ここは警備が厳しくて正門に回された。大学は非常に広い。外周を1km近く回って正門へ。ここで中に入れてもらおうと粘って交渉したが、結局無理だった。警官のいる部屋に通されたが、卒業生か関係者でなければ招請状が必要とのこと。もう疲れていたので諦めて帰る。カイロ大学にはTシャツやグッズを売る生協も売店もないようだ。次に国鉄のラムセス中央駅を見に行った。地下鉄を出たが大きなモスクの前に出てどこか判らない。警官に聞こうとしたが、英語は全く通じない。
ホテルに戻り休憩の後、
19:00ナイルディナークルーズに出る。けばけばしい船に乗り、食事とベリーダンス、スカート回し(男によるもので何枚かのスカートを回しながら脱いで行く。正しくはスーフィーの舞と言う)を見た。このスカート回しは変わっていて面白かった。20分くらい回り続けで重労働である。7月
25日(第7日目)この日は帰るだけ。モーニングコールも初めて
8:30と遅い。ここからまた長い長い空の旅が始まる。カイロ発13:50。バンコク着02:45。タイの空港は24時間空港で我々が着いた時でも少数の店は開いていた。ハブ空港として日本の空港は使えない。エジプトの水は飲まないように注意していたが、この日からはついに下痢がひどくなって来た。歯磨きの水もミネラルウォータを使っていたが、朝食ではジュースや生野菜を食べていた。7月
26日(第8日目)マニラ到着
07:55。出発9:00、成田到着13:40。結局、カイロを出るのが少し遅れた分、そのまま成田着まで遅れた。荷物が出てくるのは非常に早かった。検疫では下痢の申告を訴えていたが無視した。あれはインドネシアの時に懲りたから。SARSの赤外カメラにはどう写っただろうか。一瞬ヒヤッとした。帰りは15:02発エアポート快速で帰ったが、これが1時間に1本しかなくやはり時間は掛かった。潮見到着16:48。長い長い旅の終わり。お疲れ様でした。