ペルー旅行 2007年7月7日(土)〜7月16日(土)
今年の旅行は以前からヨーコが行ってみたいといっていたマチュピチュに行った。当初は北欧旅行のつもりでいたが、HISのツアーが安かったこと、高山であり日本から遠いので一番若い時に行っておくのがよいと判断した。実は日程は9日間の予定だったのだが、結果として10日掛かることになった。旅行代金(2名:720,080円+成田出入国税および燃油特別付加62,600円+海外空港税$91.54)
年初、せっかく海外でも使える携帯FOMA(3G)に代えたのに、アメリカおよびペルーではGSMであるのでダメ。直前にレンタル携帯を2台申し込んだ。使用料は1日105円というが、これが肝心な時に危うく役に立たなかったところだった。
7月7日(土)(第1日目)
東京駅から成田エクスプレスにて成田空港駅へ、第1ターミナルに13時25分に集合。成田の第一ターミナルは久し振りだが、サテライトが拡張されてやや遠くなった。コンチネンタル航空は初めての利用だが、マイルがノースウエストに付けられるのでよかった。京成の特急はやっぱり乗換えが面倒だし、時間もかかるので、高いけれど今回もJRを使う。コンチネンタル航空006便でヒューストンに向かう。時差は15時間(夏時間なので14時間)。短い夜を経て日付変更線通過で同日に戻る。コンチネンタル航空はなんとアルコールが出ない。ビールの持ち込みが出来ず、機内では$5で販売している。何とセコイこと。エジプト航空の時もノンアルコールだったけど宗教上の理由とかがあった。このためヨーコさんは大変な不満だった。以前ならお酒を買って乗れたが、今はテロ対策のために100ml以上の液体は機内持ち込みができない。日本を出た時、前線の影響で少し揺れたが、途中アリューシャン列島付近でかなりきつい乱気流に入った。夜中にガタガタゆれて気持ち悪かった。ヒューストン着は現地13時55分。飛行時間は約12時間ここからペルー行きのCO590便に乗り換えるわけだが、米国もセコイ。トランジットなのに、ここで入国しなければならず、長い行列に並んで入国審査を受ける。前回にも両手の指紋を取られて、顔写真を撮られたことを思い出した。単なるトランジットのつもりだが、そのままゲートに移動、15:40ペルーのリマに向けて出発した。これで国際線出国税$30.25也。リマとの時差はゼロ。夜8時20分にリマのホルヘチャベス空港に到着。生まれて初めて南米大陸に上陸した。リマのホテルはシェラトンで旧市街地の中にあった。次の日に分かったことだが、このあたりはかなりスラム化しており、治安の悪い地域になっている。やっぱり安いツアーにはそれなりに理由がある。このホテルにはカジノもあり夜も賑やかな感じだった。 向かいの建物は立派な歴史的建物であり、最高裁判所であることが分かった。
当初、ペルーのツアーは高いので中年夫婦が多いかと予測したが、何とこのツアーには若い女性が多かった。一人旅の女性も。この中に男は2人しかおらず、当然ヒロシは最年長者だった。
7月8日(日)(第2日目)
日本を出て、休むことなく22時間も掛かっているので、全員相当疲れていた。モーニングコールは8:30と遅め。リマ市内を観光。サンマルティン広場を一周、車窓から 軍人像をみる。次にアルマス広場へ、何か伝統的なお祭りに遭遇したらしく、折りよく仮装行列のようなペルーの民族衣装をまとった マリア信仰行列を見る事ができた。 リャマの人形をぶら下げて顔全面を目出し帽で覆った人、変な仮面をつけた人物。無表情の少女。派手な色使いだが、どことなく気味悪い表情の踊り。このサンマルティン広場の周りには、カテドラル、ペルー政庁、リマ市役所があり、行政の中央部と思われる。南米といっても、教会はヨーロッパ的でスペイン文化の浸透がいたるところに残っている。徒歩でサンフランシスコ教会・修道院へ行き、中に入った。修道院の地下のカタコンベには多数の人骨があるが、ここには入らなかった。川の近くの要塞公園にレストランがあり、昼食はここでセビッチェを食べる。日本人向けに量を減らしているのでちょうど良い。以前はアルマス広場に立っていた征服者ピサロの像が、この公園に移されている。
昼からは街の東部を南下し、黄金博物館へ。ここは民営だが、インカ文明に関する多くの遺物(黄金とミイラが主)を集めている。これとは別に場違いに集めているのが、世界の中世の武具・武器の類。日本の鎧かぶとや日本刀、蔵、鐙、など支離滅裂。ヨーコは興味がないため、売店に買い物に。近代武器では各国の有名人が個人で保有していた拳銃の類があった。この後、新市街地ミラフローレンス地区を経て、恋人達の公園へ。ここは太平洋に面した海岸段丘の崖の上にあり、すぐ近くでパラグライダーをやっていた。このあと、小さな商店へ案内され、日本向けお土産を買う。日曜日ということで大抵の店は閉まっていた。最近売り出したという山岳地帯の塩田でとれた塩を買った。山に塩田があるというのは不思議な感じだが、岩塩ではなく温泉の湯の花のようなもの。大きなスーパーマーケットへ行ったので黄色の着色水としか思えないインカコーラやペルーのお茶を買う。US$で支払うとお釣りはソーレスで返ってくる。シェラトンホテルの地下に売店があり、小さな土産物店があった。US$で買い物ができるので、安心で便利だ。ヨーコはカレンダーやCD、絵葉書を買った。切手は何と灯台の小型シートだった。ただ、入り口にはJCBマークが貼ってあるのに、カードは使えず、ヨーコさんがっかり。大体、ペルーでJCBは無理だ。その証拠に成田空港でJCBデスクに行って地図を求めたら無かった。ホテルのサービスで日本向け無料絵葉書をくれた。日本まで6s/.約180円くらいか。
7月9日(月)(第3日目)
いよいよマチュピチュに行くためにクスコに移動。モーニングコールは何と4:30で、5:45ホテルを出発。8:00のエアロコンドルQ221便でクスコまで行く。この航空会社は国内線しかないが大手であり独自の独占的な運行を行っているらしい。空港での手荷物検査は何とX線でなく、抜き打ちの目視検査でかばんを開けられて中身を細かく調べられるので時間が掛かる。運悪くヨーコのかばんが目を付けられて興味本位?に厳しくチェックされた。キティちゃんのベルトがまず引っかかったようだ。空港の売店でナスカの地上絵のブレスレットを買った。やはりJCBはだめなようでVISAならすぐだった。クスコ空港は3600m位の高山の谷あいにあり、着陸するのにUターンしながら高度を下げる難しさ。到着するとインディオのフォルクローレの歓迎あり。身体を慣らすために一旦ホテルにチェックインして休憩。ここは標高3400mで急な移動は高山病を誘発するため、全員スローテンポで行動した。休憩後、サント・ドミンゴ教会へ。ここは元インカ帝国の太陽の神殿(コリカンチャ)があったところ。スペイン人が土台だけを残して神殿を破壊し上にキリスト教会を作った。インカの石垣とスペインのレンガ造りがアンバランスだ。当時ふんだんに使われていた金が奪われた。この頃から天気が悪くなり、雨模様に。傘を用意していたから役立った。舞台つきのレストランで昼食。 クスコでお馴染みの12角の石を見て、バスにてクスコ近郊のインカ遺跡を見に行く。まずクスコのはずれの山に登る。リャマを連れた民族衣装のおばさんが写真を撮らせて金を取っている。最初に行ったのがケンコーという祭礼場の跡、離れて見ているから別に何もない。ただの石山に見える。プカプカラの遺跡、タンボマチャイの水源、ここは標高3750mもあるので、おそらく我々が登った富士山浅間神社より高いと思われた。さらに少し離れた要塞跡サクサイワマンに行く。ここはかなり規模の大きな要塞で、石組みが3段に組まれたジグザグ構造で広い草原を挟んでいる。トイレ休憩で入った土産屋でヨーコさんは真っ赤な派手なインカのポンチョを買った。若い女の子数人と共同購入による値引き交渉。しぶとく粘ってやがて交渉成立。25ドルのところを18ドル?で買ったようだ。夕食はクスコでは結構有名なドン・アントニオというレストランだった。ここで民族衣装の踊りを見ながらビュフェの食事をした。フォルクローレのもの悲しげな笛の音を聞きながら。変わっていたのは、モーツアルトやベートーベンといったクラシックを編曲して演奏していたこと。最後は「コンドルは飛んでいく」で閉めて、なかなか生演奏は良かった。CDを売りにきたのでヨーコさんは早速購入。$15なり。そこにサインをしてくれて一緒に写真を撮ってくれるサービス付き。しかし、若い人が多かったので誰もサイモンとガーファンクルを知らないのには参った。道理で皆さん乗らなかった訳だ。
7月10日(火)(第4日目)
この日のモーニングコールは4:30と早い。6:15発の鉄道に乗るためホテルを5:45に出発。駅まで近いのに早く出た。標高3354mのクスコから北上し、2038mのマチュピチュの駅アグアス・カリエンテスへ向かう。やはり高地であり、冬なので寒い。サボイホテルは田舎の古びたホテルで良くなかった。窓は完全に閉まらないし、第一暖房が効かない。エアコンがあるのだが、全くパワー不足で、部屋が暖まらない。風呂場は換気扇がなくシャワーは殆どお湯が出ない。前夜寒すぎてチョロチョロのシャワーを少し長めに浴びていたら、酸素不足でよろめいた。他の部屋の人も似たりよったりで、高山病になりかけた人や部屋で酸素吸入を受けた人もいる。さて、この日、ゼネラルストライキがあるかどうか現地案内人が気にしていたが、かなり悪質な列車妨害に遭った。クスコからVISTA DOMの指定席に乗ってスイッチバックで4回ほどターンして急坂を登りエル・アルコという峠の駅を越えるのだが、クスコ市内を離れたとたんに列車は徐行運転になった。沿線に労務者風の男や子供が遠巻きにして、列車を見守っている。何かを期待して・・。ストライキの意味がよく分からなかったが教職員が指導していて、中央政府に教職員の給与(月240$)を公務員並の給与($300)に引き上げるよう要求してストライキをやっているらしい。通常なら1時間程度のところが、動いたり止まったり、歩くような遅さ。突然ガツンと急停車。線路の置石に乗り上げた。見れば横の線路 にも石が積まれている。機関車の前の両脇に鉄道会社の職員がしがみついて、線路の置石を確認しながらソロソロと進む。置石を見つけては、飛び降りて手や足で片付ける。さらに長時間停止したことがあった。踏み切りに車が突っ込んできて、進行を妨害された。我々の感覚では立派な列車往来妨害の犯罪だと思うが、警察が取り締まる様子は無い。列車妨害は峠超えまでであり、その後は順調に進行。バックパッカー号では屋根が普通だが、ビスタドーム号では屋根の部分が透明な窓になっていて、ウルバンバ川の渓谷に入って両側の崖が近づくと、頭上の景色が必要になる。山の頂きに雪山がチラホラ見える。 ところが、信じられないことに、列車には暖房がない! 着れるものを全て着込んで乗ったが、それでも寒い。ヨーコ曰く、夏に冬の衣類を準備するのは難しい。結局この日、4時間のところ5時間もかかってアグアスカリエンテス駅に到着した。駅前に土産物店の集落があるが、帰りまでの時間がないので、脇目も振らずにバス停へ急ぐ。
バスは専用の乗合バスで、日光のいろは坂のようなハイラムビンガムロードをジグザグに登る。登りきったところが遺跡の入り口で、ここにサンクチュアリ・ロッジがある。遺跡に入る前に、手荷物を預ける。ビニール袋一杯に入る量が$1で、有料トイレがあるので行っておく。きちんと領収書をくれた。狭い山道を一気に登ると急に目の前にマチュピチュの遺跡が一望のもとに現れた。すばらしい!思わず見とれてしまう。バックのワイナピチュの前にへばりつくようにびっしりと並んだ 石造りのお馴染みの景色だ。でも実物の雄大さは写真では分からない。
高山でもあり見学が超スローペースだったので思いの他時間が掛かってしまい、食事時間に危うく間に合わないところだった。15時までにサンクチュアリロッジのレストランに入らないと食事する場所がない。ビスタドーム号は着いた時間が1時間おくれだったので、出発も遅らせてくれたが、実は慌てて食事を済ませ、そのままバスに乗ると、駅前の土産物店もそのまま素通りして、ビスタドームに乗り込むことになる。出発まで多少時間はあると思うのだが、団体行動としては20分ぐらいでは買い物時間にならない。行きに乗った車両にまた乗り込むと3名の客室係りも同じメンバーだった。帰りの列車は何となく速いと感じた。中では民族衣装に着替えたスタッフのショーやファッションショーが始まった。帰りは一つ手前のポロイ駅で下車、迎えに来ていたバスに乗る。スイッチバックを通らなければ列車で1時間のところ、バスなら15分でクスコに着く。明日のストライキが確実な情報が入ったので、プーノ行きは中止となった。ヨーコは折角楽しみにしていたチチカカ湖行けなくなったので、憤慨していた。ホテルではコカ茶のサービスがあり、結構人気がよかったようだ。クセがあるが飲むと癖になるようだ。
7月11日(水)(第5日目)
ボロイホテルの「サボイホテル」に2泊もする。朝食を済ませてロビーで待機していると、表の道路をデモ隊が行進している。近隣の商店もみんな店を閉め、デモ隊を見守っている、バスもタクシーもすべての交通機関が止まっているので、ホテルからどこへも行けない。 デモ隊はどうやら建設労働者のようであり、ヘルメットをかぶり角材を持っている人もいる。ホテルの隣で工事をしていた連中が槍玉にあがり、屋根から降りて作業を中止するよう支持された。道路も封鎖された、といっても石や角材、サボテン、ごみが並べられているだけの形式的なもの。そんな中を、まずホテルをチェックアウトして、別のホテル(五つ星)へ徒歩で移動する。気の毒だったのは、ポーターさんで、重いスーツケースをベチャのようなリヤカー自転車に乗せて歩いて押している。あれは気の毒だった。
ホテルリベルタドールに一旦チェックインしたあと徒歩で、カテドラルへデモ隊がいろんな通りからアルマス広場へと集まってくる。単に交通ストだけでなく、各労働組合が連結したゼネストだ。タイヤに火をつけて引き回している連中もいた。一応、警官隊も待機しており、整然とは流れている。インカ薬局も店を閉めて、時々そっと客を入れている。営業はしているようだ。教会の中を時間をかけて見学、黒いマリアや地震の絵などを見た。昼飯は広場向かいのレストラン。周りの店が営業していないのにここはひっそりと営業している。窓際は投石の危険があるためやや暗い奥の部屋でバイキング。食事後はインカ博物館へ。目立たないひっそりした博物館で、US$が通じないので、ガイドがソルに両替し準備した。中は結構広く、プレインカ、インカ、植民地時代の展示があるが、どれも地味なもので面白くない。写真禁止だったので、何も印象に残らなかった。この後は見るものもなく、ただ高台の方に歩いて、高地よりクスコの町並みを眺めるという。地元のインディオの家を見せてもらうということであったが、予定していたところは休みであり、別の少年と交渉しているところ。歩いたせいでしんどくなってしまい、ヨーコはホテルヘ帰ると言い出した。ツアーを抜けるかどうかで時間ロス、もう一人具合の良くない女の人がいて、結局添乗員が3人をホテルまで送ることになった。ホテルに戻ると言った手前、買い物に出掛けるともいえず、結局徒歩でホテルまで戻ったが、時間とエネルギーのロスになってしまった。リベルタドールホテルはさすが立派なホテルで、一応ホテル内にも装飾品店があった。部屋に戻るなりすぐに出掛けることとし、ヨーコの頭痛薬を買いにドラッグストアへ。たまたまホテルの外に小さな薬屋があって、アスピリンを置いていた。小さいのをと言うと、PTTシートの1枚10錠入りだけを小分けで売ってくれた。なるほど! 日本なら添付文書単位の売り方で1箱買わなければならないが、合理的だと思った。それから急いで、アルマス広場の周辺の土産物店に向かう。ペルーに来てから買い物らしい時間が取れていないので、みんな欲求不満がたまっている。他の連中も我々より少し遅れてホテルに戻って来て、すぐに買い物に来ていた。Saの土産の竹笛をあせって買う。ディスカウントさせたつもりだが、最初の言い値が高かったから結局えらく高い買い物をしてしまった。ドル$とソーレスS/の違いくらいか。
7月12日(木)(第6日目)
つまらないストライキのために、チチカカ湖へ行けず貴重な一日が全く無駄になってしまったが、今日はリマに戻り、予定外のリマ観光へ。飛行機はエアロコンドルと違い、もう一つの国内線、LAN航空である。最近ワンワールドに加盟したようだ。リマに入って、サンイシドロ地区のワカ・ワヤマルカ遺跡を見て、日本大使館の周りを見た。いずれも車窓見学だが、ペルー大使館の占拠事件があってから、日本大使館は要塞のような頑丈なコンクリート塀に囲まれ異様な雰囲気だ。刑務所のような概観である。このあと天野博物館を訪問、限定された予約見学しか受け付けていないとあって、ここの博物館は充実していた。天野芳太郎博士が研究で集めた、チャンカイ文化の展示物がすばらしい、早稲田大学の学生と思しき研究員が日本語で説明してくれたので、非常に分かりやすかった。特に織物の標本はすばらしい。天野博物館のあと近くのワカ・プクヤーナという日干し煉瓦のピラミッド遺跡を見て、あとはナスカへ向けて海岸沿いの高速道路(パンアメリカンハイウエイ)を一路南下。途中で、古代のインカの遺跡へ寄った。大きな遺跡で名前はパチャカマ遺跡と言う。ピスコワインで有名なピスコを経て、5時間のバスの旅。夜になってイカの街に着いた。スペイン風の中庭の周りに部屋のあるホテルだ。都会を離れ、南天の星空が広がっていた。バスを降りたら南十字星が見えていたので、周りの人に教えてあげたら感激していた。我々の他にはもう一人だけ客がいたみたいで、ホントに田舎町の二つ星ホテルだ。韓国製のエアコンがあるが音ばかりでかくてちっとも温まらない。広い部屋が2部屋続きで、安いといえば安いが、設備は最悪。お風呂は途中からお湯が出なくなり、ヒロシが入った時には完全にぬるま湯状態。幸いドライヤーがあったのでそれで暖房しながらシャワーを済ませた。それにしてもHISのホテルは三流ホテルが多い。
7月13日(金)(第7日目)
この日はナスカの地上絵を見に行く。イカ空港へ行って、飛行機が飛ぶかどうか分からないままに、空港で待機、小さな空港でコンドル航空の独占経営。なるほど朝はべた曇り。時間待ちの遊びにサンドバギーという自動車に乗る。でっかいトラクターのような4WDジープで砂丘の上をジェットコースターのように猛スピードでアップダウン。サンドボードに乗って山から一気に滑り降りる。なかなか体験できない面白さだった。その後、変な日本語でナスカの地上絵の解説をしてくれる老人の話を聞く。せっかくだから$2のポスターを買ってあげる。話もそこそこに飛行機が出ることになった。9人乗りのセスナに乗り込み2機に分乗。こんな田舎空港でも$6の空港利用税を取られた。我々は1機目に乗った。少し遅れて2機目も飛んだ。約1時間のフライトでナスカの上空に来る。 全面曇っていた のに、ナスカへ来るとすっかり晴れ上がっていた。セスナは殆ど揺れなかった。地上絵は想像以上に見えにくい。パイロットが「ミテ、コレ、ハネノシタ」と変な日本語を出すと 「ウチュウジン」とか「ハチドリ」 とかが見える。ヒロシの今回の本命はナスカの地上絵だったから、一応満足だが、イマイチ見え方が不満。セスナは右側の窓と左側の窓から同じ絵を見せるように飛ぶから、小刻みに左右に旋回するので、気分の悪くなる人が出てくる。昼食はイカのリゾートホテルで、こちらのホテルの方が立派だった。ペルーへ来てからストライキのニュースを見ようとしたが、テレビは映画や外国放送ばかりで、現地情報がまったくわからない。もちろんスペイン語がわからないから意味がないかもしれないが、イカのホテルで何と日本語放送が入った。ちょうど帰国日に東京に台風が来るとの予想。悪い予感がした。
イカを15時に出発し、再びリマに戻る。リマでもストライキがあったようで、いたるところで、デモが行われていたが、規模は小さく大衆の関心も盛り上がっていない。中央政府の都市と無関心層の多さだろう。リマの日本料理屋にて夕食。空港へ向かい。23:30発CO007便にてヒューストンへ。6時間半のフライトでヒューストン着。
7月14日(土)(第8日目)
6時間半のフライトでヒューストンに到着。ここでまた米国入国手続きで並ぶ。入国するとやはり様子がおかしい。ひとまずゲートで待機するが成田行きが突然キャンセルされた。この後が大変で添乗員と共にコンチネンタルのチケットカウンタに並んで待つこと3時間。
荷物は既に飛行機に積んでいるし、航空ルートの割り振りが大変混乱。お腹はすくし、のどは渇くし、飛行機に乗るため飲み物はみんな処分したし、立ち詰めで疲れた。この日は飛行機が飛ばないことが判明し、同じコンチネンタルなら成田行きは木曜日に出る。他社振り替えで、ロスまたはシスコ経由でUAで成田へ行くことに。サンアントニオの学会に参加したという○大学教授夫妻のご一行さんは、バングラディシュの留学生を連れていたため、バンクーバー経由で帰る予定がカナダに入国できず、折角取れていたバンクーバー便をキャンセルする事になったという。結果的には、明日のロス発UA891便で成田に戻ることになった。名古屋空港から来ていた人や、航空券の予約が別れているためツアー全員ではチケットは取れず、UA便の他にANA便の人もいる。ヒューストン空港のマリオットホテルにもう1泊できることになったので、元気のいい人は、近くのショッピングモールまで買い物に出たくらいで、損したというより得したと喜んでいた。ヒロシは幸い月曜日が休日で1日予備日だったので、仕事に直接影響せずに済んだが、こんなことは初めてであり、長い間にはいろんな体験をすることがある。
飛行機が出ないと分かったときに、何とか日本に連絡したいと思ったが、重い充電器は予備電池と共に既にスーツケースに入れ手元にない。ヒロシの携帯はもう電池がなく、ヨーコの携帯も電池は真っ赤。ヒロシの錯覚で電話帳は移せていず、操作法も分からない。ヨーコが覚えていたShiのアドレスに何とか短いメールを作り、送っていた。18:20届いたかどうか不明だが成功した模様。帰国してから判明したが、このメールはきちんと届いており、短文のメッセージも的確に伝わっていた。全く役に立たなかった重い携帯が、初めて役に立った瞬間であった。それにしてもDoCoMoはあんな使いにくい中古の携帯を有償で貸すとは不親切である。FOMAカードはメモリであるのに、電話番号以外のデータは何も持ち出せない。ペルーではクスコのような都会でも殆ど電波が届かない。そのため電池は減る一方で毎日充電しなければならない。
ホテルに落ち着くことが出来たので、空港のトラムに乗って各ターミナルを見てくる。夕食はテキサスバーガーとポテトチップ。ボリュームがあるのでスープを加えて二人で食べた。ヨーコはビールがあれば食べるものは無くてもいい。
7月15日(日)(第9日目)・7月16日(月)(第10日目)
ヒューストン発9:20のCo1495便でロスアンゼルス空港着10:48。ロス発12:37UA891便で出発。UAとCoのコードシェア便だった。成田到着15:55。毎度のことながら非常に疲れた。これまで、荷物出しも順調だったのに、意外に時間が掛かり心配した。すぐに携帯を返しに行き、成田エキスプレス16:43発を予約。夕刻に潮見到着。長い旅が終った。幸い熱帯魚も金魚も生きていた。今回の旅行は部屋の換気扇を入れておいたので、熱気はそれほどこもらなかったようだ。
我々が旅行から帰ってくるとその地方で災害が起こることがよくある。今回も、現地時間8月15日18時40分、マグニチュード8.0の地震が発生、500人以上が死亡。